認定非営利特定活動法人ソルト・パヤタスの事務局長を務める井上広之さんのインタビュー記事の連載の第一弾です。彼がどのようにして国際協力に出会い、関わるようになったかをお聞きしました。野球少年から陸上部へ、そして一般的な大学生活から国際協力に関わっていくまでの過程を追います。
インタビュー第2弾:ゴミ山パヤタスの変化と今必要な国際協力とは
インタビュー第3弾:「数値よりも国際協力の本質を」
負けず嫌いの少年時代
– いつもお世話になっております。今日は堅い話はやめて、ソルト・パヤタスの事務局長をやっている井上さんが、どんな経験を経て現在に至ったのか聞いていきます。本日は、よろしくお願いします!
よろしくお願いします!
– 井上さんって良い意味で肩の力が抜けている感じがします。どんな風に育ったんですか。
親が心配するくらい静かな子やったんですが、小学3年生で野球を始めてから活発になりましたね。中学1年生の途中で野球を辞めて、勝ち負けがより明確な陸上部に入りました。
– 中学の途中で部活を変えるのって、けっこう珍しいことじゃないですか。
野球は実力を争うのがポジション別で、上下関係もある。実力が同じくらいやったら先輩が試合に出るじゃないですか?そういう文化が嫌やったんですね。そんな時に体育祭で1500m走に出場したんですよ。当時体力には自信があったんですけど、陸上部の当時のエースにぼろ負けして…。でも陸上の場合、勝ち負けや実力差はタイムではっきりわかるやないですか。なので負けても清々しくて。その時に陸上って面白いって思ったんですよ。
– それにしても退部してまで部活を変更するとは、相当な負けず嫌いだったんですね。
そうかも知れない。野球部で長距離が1番早かったし、その時はどうしても陸上部に入りたかったんですよ。そこからはずっと陸上部。中学の頃はあんまり勉強してなくて、高校も陸上を本気でやってたなぁ。
THE・大学生
– 勉強あんまりしてなかったんですね!笑。大学にはどうやって進学したんですか。
まったくってことではないですよ笑。人並みって感じかな。大学は一般入試で入りました。その大学のサークルでフィリピンと出会ったんです。
– なるほど。そこでフィリピンと出会うわけですね。そのサークルはどうやって知ったんですか。
大学の前のカフェでご飯食べてたら、掲示板にチラシが貼ってあって、たまたま目についたのが「フィリピンに家を建てましょう!」っていう言葉。読むと毎年東南アジアを周っていくらしく、写真が青春っぽくてよかったんですよ。海外も未経験だったんで、惹かれましたね。
– 本当に偶然ですね。ときどき目にする「みんなで行こう!」みたいな感じのやつですよね。
そうそう。深く考えず、THE・大学生みたいなテンションで1、2年生を中心に19人くらいでフィリピンに行きました。その後はインドネシアとバングラデシュにも行きましたね。
– すごい軽い感じで聞こえてしまうけれど、だからこそより自然な形でフィリピンや現在の活動のキッカケに出会うことができたんですね。それが継続に繋がっている要因の1つかも知れません。
うん。凄く楽しかった。でもサークルのメンバーがだんだん減って、もっと楽しそうなサークルにせなあかんな〜と思ったりして、金髪にしたり色々試行錯誤しました笑。代表が金髪で明るそうな兄ちゃんやったら、楽しそうに見えるかなって思って笑。そしたらすぐに26人ぐらいまで増えて、2度目のフィリピン行き、その後は団体も50人くらいに増えました。
記憶がない?!初めて見たフィリピンの印象
– 「巻き込む力」ですね。やっぱり楽しそうに見えることも大事ですよね。現在は本当に真摯に活動に取り組んでいらっしゃいますが、当時そのテンションで訪れたフィリピンってどう見えたんですか?
最初に空港ついたときはめちゃめちゃテンション上がりました笑。そして次の日にスタディーツアーでパヤタスへ行きました。それがソルト・パヤタスとの出会い。でも正直、その時の記憶はあんまりないんですよね。
– なんにも覚えてないんですか笑。
あ!パヤタスでバスケとソーラン節したのは覚えてますよ。
– 清々しいです。浮かれてて楽しい思い出しか覚えてないってことですかね。2回目はいつ頃ですか?また、1度目との違いはありましたか?
2回目は20歳のときです。1回目の訪問から丁度1年後です。もう1度そのスタディーツアーに参加したんですけど、2回目の方が鮮明に覚えてますね。
– なにが違ったんでしょうか。
余裕があったのかもしれないですね。19歳と20歳では全然違うし。やっぱり今思うと1回目の時は、遊びにいった感覚やったんかな〜って思う。2回目の時は学ぶ姿勢があったんでしょうね。
2度目のフィリピンの衝撃
– 同じ場所や出来事でも、本人の心の状況で全然違う感想になるんですね。最初から知識豊富だったり真剣に考えて参加する人ばかりじゃないですもんね。それでいいんだと思います。2回目で覚えている出来事はありますか?
シングルマザーのおばちゃんの家に家庭訪問したんです。昔はゴミ拾いの仕事をしてたけど、腰を悪くしてしまってからは家で水ヨーヨーみたいなものを作る内職をしてた。「腰が悪くなかったら、ゴミ拾いの仕事ができるのに」って泣きながら話してくれたのを強烈に覚えてる。
– ゴミ拾いの仕事をしたいっていう発想が、日本では考えられない状況ですもんね。
そう。正直、何も知らない学生の頭の中ではゴミ拾いの仕事って聞くと、最低レベルの仕事やと思ってた。でもおばちゃんの話を聞いて、それよりも切羽詰まった過酷な状況があるんだって知った。その水ヨーヨーの仕事は、1日中働いても100円くらいにしかならないって教えてくれたんですよね。
– 特に日本で楽しい学生時代を送ってきた分、衝撃が大きそうですね。
もうひとつ忘れられないのが、サークルで使わなくなった服を集めて、フリマのようなイベントを開催した時のことで、フィリピンの女性ってオシャレが好きやから、すごく喜んでくれたんですよ。でも、ふと気づくと1人のおばちゃんが端っこの方に座っていて、理由を尋ねると「買っちゃうと、あしたのご飯のお金がなくなっちゃうからね」って、すごい悲しそうな顔で言ってきたんですよね。その時にも厳しい現実に触れた気がしました。
– 企画者側としては辛いですね。良かれと思ってやったことが独りよがりだったのかも…なんて思ったりして。なんとも言えない気持ちになりますね。
あぁ、貧しいってこういうことなのかなってそんときに思ったと同時に、1年前も俺はここにきてたのに、その間俺は一体何をしてたんだろうっていう気持ちになったのを覚えています。
国際協力の道へ
– 2回目の渡航でそういった経験をして、日本に帰ってきたあと井上さんに変化は起こりましたか?
帰ってきてすぐにソルト・パヤタスのインターンに応募して、3年生が終わったときに休学して、書類選考と面接を経て渡航が決まりました。
– 引き寄せられている感じですね。休学してすぐ渡航したんですか。
いや、渡航までは団体の受け入れ態勢やいろんな事情で時間があったので、半年間はバイトをしてお金を貯めました。
– その時期だと周りは就職先も決まり始めていたと思いますが、迷いや焦燥感はなかったんですか?
うん、もう周りは就職が決まっていましたね。早い子は春にはもう決まってたかなぁ。意外と焦りとかはなくて、先輩にも同じような経験をしてた人がいたのは大きかったかも知れないですね。
自分にとってのやりがいに素直になる
– 沢山の気づきがあった2回のフィリピン渡航とインターンを経て、国際協力の道を爆進。と、思いきや1度就職されていますよね。
うん。24歳のときに入社して3年間。その会社を選んだ理由はグローバルに展開していて、説明会で「世の中の人がよりクリエイティブに生きられる社会を作りたい。」っていってたから。インドの田舎の子ども達が教育にアクセスできるように中古のコピー機を現地に入れてたりもしてた。
– 社会人経験を積んでパワーアップしてソルト・パヤタスに戻るために、3年間だけと決めて就職した、みたいな感じですか。
あ、違う違う。元々はちゃんと勤めあげて、会社に勤めながら関わりたいなぁって思ってたんやけど、会社員生活3年目に入った頃ぐらいに「自分が本当にしたいことって何なんだろう?」って感じてた時期にソルトが次の職員を募集し始めたからですね。
– ソルト・パヤタスが次の職員を募集しているのを知れたということは、就職後も活動をフォローしていたんですね。
してたしてた。社会人ボランティアとして関わったりとか、一応社会人2年目の時に理事になったり、外側からサポートする形ではあるけど。
– 継続して関っていらしたんですね。就職活動と就職を機に1度、離れていたのかと思いました。やはり、2度の渡航やインターンを通じて芽生えた想いは消えなかったということですね。なぜ、会社が微妙だと感じていたんですか。
配属された部署で営業を任されていました。扱っている商材の市場は縮小している傾向があったので、営業で売上を立てるには他社と価格で勝負をするしかなかった。「こういう営業、仕事が俺のしたかったことなんやろうか?」って思ってた。そんなときにフィリピンの図書館の寄付を集めるファンドレイジングイベントをやったんです。30人ほど集まってくれて、寄付もその場で7万円くらい集まったんですよ。
– 結構な額ですよね。
それが衝撃やった。営業ではどちらかというと、自分が頭を下げたりお礼を言ったりしながら、お客様に商品を買ってもらっていた。一方で、寄付は物理的なリターンがあるわけでもないのに、「関われて嬉しい」とか「今日、楽しかった」とか寄付者の方から言ってくれて。あ、絶対こっちの方が自分にとってはやりがいがあるなと思いましたね。
– お金はお金でも、なんか全然違うもののような気がしますね。
そうそう。そっからNPOのファンドレイジングとかにも興味を持ち始めた。そして転職しようと決意して2016年、27歳からソルト・パヤタスで働いてる。ちょうど3年経ったくらいかな。
– 有難うございました! どこにでもいる大学生が偶然をキッカケに変わっていき、国際協力に真摯に向き合っていくまでのストーリーを垣間見れておもしろかったです。また、国際協力に興味はあるけれど、どこか違う世界の話のように感じていた人にとっては、国際協力がぐっと身近になったと思います。
インタビュー第2弾:ゴミ山パヤタスの変化と今必要な国際協力とは
インタビュー第3弾:「数値よりも国際協力の本質を」